不登校になってひきこもりから脱出するまでの7年間の動きを紹介します


不登校になってひきこもりから脱出するまでの7年間の動きを紹介しますについて、不登校引きこもり経験者が語ります。

今回は私が不登校になり、ひきこもりから脱出するまでの7年間の動きを、特に転機になったり脱出するのにヒントになる出来事を中心に紹介していきます。

私のこの記事で紹介する過程を、みなさんの置かれている状況と照らし合わせ、過去の出来事やこれからどうしたらいいのかを、私の経験談を元に参考にして頂けたらと思います。

 

ちなみに私の性格は、陰キャで人見知りで内向的で友達が少なく、自分の事を表現するのが難しい人間でした。

今でも根本の性格は変わっていませんが、色んな事を経験し沢山失敗しながら、元気で明るく笑顔でほとんどの人と接する事が出来る人間になれる事ができました。

そんな自分の原点である、不登校からひきこもりになり脱出するまでの動きを紹介していきます。

 

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1997年 13歳。不登校の始まり

 

 

13歳の中学1年生で4月から入学しすぐに野球部に入る。

しかし、部活の同級生からイジメられたり、中学の先生の高圧的な態度や言動にビビりながら登校していた。

 

不登校のきっかけは5.6月頃に風邪を引き学校を1週間程度休み、風邪は治っても学校に足が向かなくなった事から始まりました。

最初は「学校が怖い。不安。無理。」という感情が湧いていたような気がします。

 

親は私が学校に行かなくて休む事を仕方なく受け入れたという感じ。

それでも、「今日は学校どうする?」と、聞いていたような気がします。

でも、結局私は「・・・・・」と無言で返したり「行かん」って言ったような気がします。

 

そんなこんなで不登校になり、最初の1ヶ月間は精神的な疲れで、学校に登校する8時~9時の時間に謎の腹痛が続くという事が起きていました。

私も当時は、学校に行きたくない。という感情より、学校に行けない。という感情が勝っていたと思います。

だって、学校に行くのは当たり前と私も当然考えていたので、学校に行きたくない。という感情はあってはならない事だと思っていたからです。

 

そのまま中学1年の夏休みに入りそれ以降は学校を休み続ける生活を送っていました。

 

学校に行かなくなると家の中での生活が中心となり、ゲームをしたりテレビを観て過ごしていました。あとは音楽を聴いて家の中で歌ったりしていました。

 

とにかく、学校に行けない苦しさと家が暇すぎる苦しさで、どんどん心がすさんでいったような気がします。

 

そして、記憶に残っているのが、家にあったパソコンでA列車という街を作って電車やバスを走らせるゲームを夢中でプレイしていた記憶があります。

 

当然、家の中で勉強をする事はなく、するとしても何をどう勉強したらいいのか分からないし、「勉強=学校」というイメージがくっついて離れないので、尚更勉強はしませんでした。

あと、勉強をする余裕もなく、1日を何とか生きるという事で、心も体も精一杯だったような気がします。

 

そうした日々を送っているとはっきりした時期は忘れましたが、母ちゃんがお坊さんを連れてきて30分~1時間お経を唱えていた事がありました。

その前から母ちゃんは私に「そろそろ学校行かんと?」って話しかけていた記憶があります。

しかし、母ちゃんなりにどうにかしようとしたものの、上手くいかず周りの知り合いの進めもあってお坊さんを呼んだと、後に教えてくれました。

 

結局、1ヶ月ぐらい毎週来ていたような気がしますが、私と私の妹の2人で「呼ぶの止めて!」と泣きつきお坊さんが来るのが終わったような気がします。

 

ただ、それぐらい親は不登校という状況に戸惑っていたんだと思います。

 

また、中学の野球部の先生が定期的にお家に来てくれて、何度か一緒にバッティングセンターに行った記憶があります。

当時、その先生は部活でとても怖い存在でしたが、私と一緒に車で連れ出してくれて、その時はいつもの怖い感じがなくとても優しく接してくれてありがたかった思い出があります。

 

そうして、1月の新学期が始まるまで学校を休み続けていた私ですが、1月の新学期が始まる前に当時、中学1年生の学年主任の先生から家に電話があり、「1月の新学期に学校に来るように」と、どうも断り切れない雰囲気で電話があった事で、新学期に1回だけ学校に登校した記憶があります。

しかし、その登校が突然でフォローもないような状態だったので、とても嫌な気持ちで再び学校に行けず、より学校に行きたくないという気持ちが芽生えたような気がします。

 

そして、そのまま家に篭もり中学1年生が終わりました。

 

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1998年 14歳。過去に不登校の生徒対応を経験した先生が担任に

 

 

中学2年になると過去に不登校の生徒に対応した先生が担任になりました。

私が2年に上がる時、学校の先生たちなりに私が1998年当時、その学校では珍しかった不登校生徒に向き合うべく、2年のクラス替えのメンバーで誰と一緒だったら学校に来やすいか?事前に確認してくれた事がありました。

 

私は2人、今現在でも繋がっている親友2人の名前を上げ、先生は「2人同じクラスは難しいかもしれないね」と言ってたものの、その2人と同じクラスになる事ができ、不登校対応経験者が先生という、学校に来やすい環境を整えてくれました。

 

そうして、担任の先生が定期的に家を訪れ、最初は訪れても無視をして帰したり反応しても家の玄関前で少し話をしたりという感じで関わっていました。

確か担任の先生は手紙を書いてくれて、その手紙を毎回ではないものの読んだ記憶があります。

手紙で関わる方法は、今の私の支援でも活かされています。

 

そうして、自分のペースに寄り添ってくれたりクラスのメンバーの配慮や担任の先生が経験者という事と、定期的な先生の家の訪問もあり、私の心は少しずつ「学校に行ってみようかな」という気持ちにシフトしていきました。

 

そして、中学2年の2学期に入る秋頃から保健室登校がスタートしました。

毎日というペースではなく、週に1.2回ぐらいのペースだったりしたと思いますが、朝みんなと同じ時間に学校に登校し、自分のクラスの教室に入らずに保健室に入りました。

 

保健室の中では、カーテンで仕切る事ができるベット内に隠れ大体1時間~2時間ぐらいそこで本を読むなどして過ごした記憶があります。

その後はみんなより早く家に帰り学校で過ごす練習をした感じでした。

 

今でもハッキリと記憶に残っている事として、保健室に朝の通学時間みんなと同じタイミングで登校したので、保健室に入ってから間もなく朝のそうじの時間があり、ベッドのカーテンを閉めて入っていた私の所にそうじしようとした他の生徒が悪気なくカーテンを開け「あ!?」と驚いた表情を見せて気まずい空気を感じた事が何度もありました。

今思えば、掃除後に登校しても良かったと思いますが、今では良くも悪くも不登校の武勇伝的な思い出になっています。

 

そうして、保健室登校を何度も積み重ねていき、12月に入った2学期の冬休み前の最後の登校日の帰りの会のタイミングで保健室にスタンバイしていた私は、担任の先生のサポートの元、クラスに勇気を振り絞って入りました。

 

時間にして数分程度の滞在時間でしたが、とても緊張し誰かに何か言われたらどうしよう。とか、仕方ない事ですが、ビックリされたらどうしよう。という不安を抱えながら入った記憶があります。

 

でも実際には、みんな大きくビックリしたリアクションも見せず淡々と過ごしてくれていたので、この経験がきっかけで冬休み明けの3学期から、再び再登校できるようになっていきました。

 

多分、あの当時を想像するに、事前に担任の先生がクラスのみんなに事情を説明していたかもしれません。

真相は分かりませんが、あの時の先生とクラスメイトの対応に今も感謝しています。

 

そうして3学期は週に何日か学校に登校するようになり、普通にクラスメイトとも友達になり一緒に遊んだりふざけながら過ごしました。

また、修学旅行も参加し今でもいい思い出として残っています。

 

ここまで、中1で不登校になり長く休んでいた私が、2年に上がり先生達やクラスメイトの協力の元、再び学校に登校できるようになる事ができました。

 

ここで思う事は、先生達の理解が進みサポートも配慮されたものになり、友達やクラスメイトの関わり方も一見普通にされながらも配慮されている雰囲気に、再登校が実現できた理由があったのではないかと感じました。

 

やはり、人と環境は重要な要素なんだと考えさせられました。

 

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1999年 15歳。中3で学校が進学モードに入り勉強の遅れから再び不登校になる

 

 

中学3年になり、春から夏にかけての1学期は週に数回のペースで学校に行けるようになりました。

また、学年が上がりクラス替えもありましたが、2年の時に一緒だった親友2人は同じクラスに上がる事ができ、学校に行きやすい環境をサポートして頂いた記憶があります。

 

しかし学校に通い続ける事がある時期から出来なくなってきました。

それは、中学3年生になり来年高校進学を控える学年になった事で、秋に入る2学期辺りから学校も進学についての説明や進学に向けて勉強をより一層力を入れるようになり、不登校期間中、全然勉強に手を付けていなかった私は、当然のごとく取り残され今まで感じていた学校での居場所を再び失ってしまい再度不登校になりました。

 

今振り返ると、最初の不登校は学校の怖い環境や同級生からのいじめなどが絡み合い行けなくなりましたが、今度は勉強に付いていけなくなり居場所を失った事で行けなくなったという、同じ不登校でも状況や時期により理由が変わるという所を感じる事ができました。

 

じゃあ家に居る間に勉強していたらいいじゃんと思う所ですが、不登校になり人生に絶望していた私にとって、学校復帰や人生をやり直すというイメージは当時、全然湧いておらず、刹那的に日々をただ生きているという生き方をしていたので、勉強みたいに将来を見据えてコツコツ積み上げる努力をするという行為に必要性を感じていなかった。

ただ、人生をあきらめていたから勉強をする意味を感じずにいた記憶があります。

 

勉強に関しては、計画的に将来を見据えて取り組むという事は、言葉では簡単に言えたりしますが、実際に不登校で人生に絶望を抱いている人にとって、とても難しい行為になるんだと私は思います。

 

また、高学歴を狙わなければ学校を取り巻く環境を考えると、通信高校や教材動画。ネットなど、色んな方法である程度の学力を付けるチャンスは沢山あるので、今の時代、無理に勉強を強要しなくても、必要に応じて学び直してもいいかな?と思ったりもしました。

 

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2000年 16歳。本格的なひきこもり生活のスタート

 

 

中学校を卒業し義務教育が終わった事で、特に勉強もしてなかった私は進学する当てもなく、進学できる程のメンタルも体力も無かったので、そのまま家でひきこもる生活がスタートしました。

 

はっきりとした時期はちょっと忘れましたが、この時期ぐらいに母ちゃんが、「どうせ家に居るんなら時間を潰せる物があってもいいんじゃない」といった話をしてくれ、それから私はアニメ、音楽、エンタメ、ドラマ、映画などが視聴できるケーブルテレビが自分の部屋で観れるようになりました。(今で言う動画配信サービスみたいなものです)

 

この時期は不登校後に味わった絶望感が減ったように感じ、逆にこれからの人生に対しあきらめ感が強くなっていたような感覚があります。

 

まぁひきこもっていても生きているんで、とりあえず家で過ごすツールが増えた事はとてもありがたかった記憶があります。

 

なので、この時期に生活スタイルは、ケーブルテレビの視聴。パソコンゲームやネット。CDの音楽をプレイヤーで聴く。マンガ。テレビゲームという過ごし方を毎日送っていました。

 

これも中学生の頃から定期的にやっていた事ですが、絶交していた友達とも復縁し夜の21時~23時頃まで数人の友達が近所の公園に集まり一緒にサッカーをした思い出があります。

 

これはとてもありがたい事で、夜の時間に友達と一緒に好きなサッカーができる事に喜びと嬉しさがあり、また、夜の時間帯であれば学校は終わった時間という事で友達とも会い易かったので、私の興味のあるサッカーができ、友達とも夜の時間でほとんど気にせず会う事ができ、ひきこもっていた私が外に気持ちよく出れるきっかけを作ってくれた友人に本当に感謝した記憶があります。

 

そして、中学を卒業し高校も行ってないので在籍がどこにもない私に焦りを感じた母ちゃんが「せめてバイトでもしたら?」と何度も言ってプレッシャーを掛けてきたので、一度だけ嫌な気持ちを押し殺し勇気を出してゲームセンターとカレー屋のバイトの募集に応募し面接をしました。

 

ただやる気が全くなく人と外に対して自信が無かった私をバイトの採用者が見抜いたのか?2件ともしっかり落ちて、母ちゃんに対しバイトの面接は行ったけど不採用やったからもうできる事はないからひきこもります。みたいな雰囲気を醸し出してひきこもり生活を続けていた記憶がありました。

 

そしてたら母ちゃんもバイトの面接に行って落ちた息子をあまり責められないようで、それからバイトへの催促は減りました。

 

そして、この時期ぐらいに約半年間の母ちゃんとの接触を無くす(部屋から出ない。会話をしない。ごはんは家族が居ない時に冷蔵庫を漁って食べる)事がありました。

きっかけは今では覚えてないぐらい些細な事だったと思います。

しかし、きっかけ事態には今思うと意味は無く、どちらかというと不登校からひきこもりになって蓄積したストレスや母ちゃんからのどうにかして外に出たり学校に行く。せめてバイトでもして欲しいといった感情に嫌気が差していたのかもしれません。

 

そういったタイミングと状況があり、半年間の絶交期間がありました。

しかしありがたい事にその間、母ちゃんは私を見放さず、私に対し母ちゃんが平日の仕事日が終わった週末の休みに外出する時は「今から〇〇に行って〇〇時に帰ってくるね」「おはよう。」「行ってきます」「ごはん作って冷蔵庫置いとくよ」「ごはん買ってきたよ」と声掛けをしてくれました。

 

また、ある時はトイレで出てきた私を見て歩み寄り「握手して」と言って握手を交わした思い出があります。

この出来事は言葉以上の意味を持ち、母ちゃんが私に対する思いやりを感じて、とても嬉しかった記憶があります。

この握手する行為は今の私の支援活動においても使わせてもらい、言葉では表せない思いやりや心の繋がりを感じる事ができるので、この母ちゃんからの教えが今の私の支援の在り方にとてつもない影響を与えてくれました。

 

2001年 17歳。ひきこもりだけど英会話に通い出す

 

 

 

そうして本格的なひきこもり生活をスタートして1年が経った頃、日本という国で暮らす事に絶望していた私はケーブルテレビの映画チャンネルで観ていた海外の映画に惹かれていました。

 

当時は母ちゃんに対し「将来は海外で生活を送りたい」と言っていた程です。

ひきこもりで外にも出れず人も怖がっていた私ですが、海外の映画で特に田舎ののどかな風景や人間の温かさを感じるやりとりの描写に憧れていました。

 

ある程度この頃になると、私と母ちゃんの関係も少し落ち着いた感じになっていたので、日常会話から「将来は海外で過ごしたい」と言った私の発言に可能性を感じた母ちゃんがいくつかの英会話スクールのパンフレットを持って帰り私に見せて紹介してくれました。

 

ただ行きたい気持ちは少しありつつも外に出る勇気や他人と会う事に対する不安が大きくあったので、なかなか前向きに考える事ができないでいました。

 

しかし、そうして英会話に行く行かないの気持ちを繰り返していた私ですが、半年経ったある日の土曜日の朝、確か9時頃に私が母ちゃんに「今から英会話スクールに行こう。でも1時間したら気持ちが萎えてしまうけん。」と言った私に母ちゃんが「分かった。今から用意するから行こう」と答えてくれ、すぐに用意して英会話の体験レッスンに行った記憶があります。

 

そうして伺った英会話の体験レッスンは、外国人の講師と一緒にABCDEFGの歌から一緒に学び、中学校でほぼ英語を理解していなかった私は、英会話のレッスンも全然何をやっているのか分からずでした。それよりも外国人とコミュニケーションが取れる事に感動し、不思議な居心地の良さを感じた事で1年以上英会話に通い続ける事ができました。

ちなみに最初は週に1回の夕方16時から1レッスン(50分ぐらい)からスタートし、ある程度慣れてくると週に複数回入れて英会話と外国人とのコミュニケーションに明け暮れていました。

 

その頃の気持ちを振り返ると、最初の週に1回の頃は、緊張と楽しみが入り混じった気持ちで行動していて、家から15分ぐらい歩いて最寄りの駅に行き、それから1駅先の駅で降り、駅ビルに入っていた英会話に行って、終わった後は近くのゲームセンターでサッカーゲームをして家に帰っていた思い出があります。

 

これが慣れてくると、英会話で仲良くなったイギリス人で20代の先生が私がレッスン後の時間に休憩時間になっていたので、一緒にサッカーゲームを楽しんだり、イギリス人の先生が昼食用に買ってきたマックのポテトを分けてもらい食べた記憶があります。

 

また、アメリカ人の先生はゲームセンターでバスケットのゲームをしており、そのプレイを片言の英語で会話しながら先生のプレイを観て応援した思い出もあります。

 

あの時、フレンドリーに関わってくれた、外国人の方達にはとても感謝しています。

 

こうして少しずつですが、再び外に出たり家族以外の人と関わる経験をした記憶がります。

 

ちなみに英会話に通い出す出来事は、私のひきこもり人生の中でも1位、2位を争う大きな勇気を振り絞って行動した人生の転換期で、この経験をした頃から少しずつひきこもり改善へ向けての風向きが追い風になるように変わっていった感じがしました。

 

こうした経験から、ひきこもりを改善する段階で勇気を振り絞って大きな決断と行動をする事は、改善に向けてとても大切な要素なんだと感じた期間でした。

 

正直、精神的にとても大変だったけど、結果的に大きな成功体験になったような気がします。

 

2002年 18歳。大検とパソコンスクール

 

 

英会話がある程度通えるようになり、外に対する抵抗力も少し減り外で何かしたい気力も湧いてきていたので、母ちゃんが「吉郎。家でパソコンしているからパソコンスクールで習ってみたら?将来の仕事に資格を取ったら役立つよ」と言われ、その話に興味が出た私は家から少し離れた所にあるパソコンスクールへ通い始めました。

 

最初からキーボードのタイピングができずにいましたが、スクールではタイピングゲームを遊ぶ事で練習を重ねていき、それからWordやExcelの勉強。その他、資格になる勉強をして学んでいきました。

また、パソコンスクールの先生も優しく丁寧に教えてくれて、毎週土曜日の午後13時30分から90分でパソコンに通い、その後、英会話に16時から入るというスケジュールが完成し、私にとって刺激的でもありしっかり疲れる用事ができました。

 

このように1つずつ新しい事をスタートして、積み重ねていく経験が、より外の環境適応の促進を進め、他人に対しての不信感を軽減できたと思います。

 

そうしてわずかながら自信が出てきた頃、秋の時期にこちらも母ちゃんが提案してくれて、「吉郎。高卒を短期間で取る方法があるよ」と言われ聞いたのが、大学検定試験でした。今でいう所の高卒認定試験です。厳密には高卒にはなりませんが、その視覚を持つ事で、高卒同等の意味を持っているとの事です。

 

この母ちゃんの提案に「アルバイトをしたりこれから外に出ていくには、高校卒業資格が必要だな」と日頃考えていた私は、その提案に乗り、また、その大検の試験勉強ができる予備校への学費が返金無しの50万円でしたが、最近英会話やパソコンなどの新しい習い事が定着し少し上手く行き出した私に期待してくれた母ちゃんは、「高校に普通入ったらそれなりのお金が掛かるから、そうだと思えば出してもいいよ」といった感じで答えてくれ、次に大学検定試験の勉強が学べる予備校へ通い始めました。

 

場所は福岡市の中心部で、家から電車とバスを乗り継いで1時間以上掛けて通い始めました。予備校では確か朝10時からスタートし私も含め2.3人で小さな教室で先生の教えのもと勉強し、12時~13時まで昼休みでコンビニで買ったおにぎりやサンドイッチを食べ、13時~15時までの午後の授業を受ける日課をスタートしました。

 

しかしながら、これまで順調にいっていた私のひきこもり改善行動もここでは陰りが見え、少人数の授業雰囲気に逆に気を遣い過ぎたりストレスを感じて疲れていった私は、1ヶ月も持たずに予備校を休み始め、結果、それ以降行く事なく辞めてしまいました。

 

今でも思いますが、先払いの学校だったので、母ちゃんの期待に応えれずに私自身も高卒資格を取り社会へさらに飛躍するチャンスを逃してしまった事に、落ち込んだりしました。

 

今振り返ると、家から学校へ通学する時間も人混みの中での移動だったので、それもストレスに感じ、学校での雰囲気と合わさって行けなくなったような気がします。

少し飛躍をした18歳でしたが、全部順調にいった訳でなく上手くいった事もいかなかった事も今となってはとても大切な経験(財産)になったと思います。

このように上手くいった事や上手くいくと信じて途中で辞めた事もあり、誰もが経験する人生と同じで、不登校やひきこもりの方も紆余曲折ありながら、前を向き続け歩んでいく事の大事な部分を読み取れたような気がします。

 

2003年 19歳。児童相談所の相談スタートと夜間高校の決断

 

 

パソコンスクールへの通い(週に1。でも、途中である程度資格を取り終わりました)は続けながらも英会話のレッスンは終わり、家に篭もる日々が再スタートしました。

 

そんな中、母ちゃんは私に「市の児童相談所で相談を受けてくれるけん、一回お母さんと一緒に行ってみらんね」と提案があり、しばらくして一緒に児童相談所へ相談に行きました。

そして、その時に出会った心理士の職員と相性が良く、これまで何人かの支援者との関わりがあってもすぐに自分から拒否して遠ざけていた私が、始めてこの人だったらまた会ってみようと思えるぐらい話があったり希望を持つ事ができた出会いでした。

 

そうして、1人で電車と地下鉄を乗り継いでその心理士さんの相談を受けに数カ月間。週に1回のペースで通い、自分が考えているこれからの進路。今抱えている悩み。それ以外にも世間話を交えて交流を深め信頼関係を作っていきました。

 

この出会いは私がひきこもり期間に経験した出来事でも1番の衝撃と改善へ向かう大きな力を与えてくれました。

 

そうして、ある程度話をして辿り着いた答えが、高校進学してなかった私が社会へ向かう第1歩として、夜間高校へ入学するという事でした。また、夜間高校へ入学するに辺り、心理士の職員さんと話をしながら母ちゃんにも協力して調べてみてもらい、丁度その頃の入学試験で20歳以上は作文と面談が入学試験という、勉強面の不安を取り除く試験内容だったので、不安はありながらも勇気を出し、心理士さんの応援もあって取り組む決意をしました。

 

そうして、家で出来る学習をする為に、国語、数学、社会、理科、英語などの家で出来る家庭用テキストを用意してもらって、夜間高校入学の為、久しぶりに勉強に取り組んだ記憶があります。

 

今振り返るとこの状況に至るまでに、友達との遊び。英会話やパソコンの習い事。信頼できる相談者との出会いなどがあったからこそ高校入学への決断を決める力が身に付いたと感じています。

 

もちろん!母ちゃんのサポートも大きな力となっています。

そして、家族以外の人との繋がりや信頼関係を作れた事で、もう1つ踏み込んだ決断と行動ができ、大きな不安に押しつぶされそうになりながらも、色んな人の事が頭に浮かんだりして、なんとか前に進む力を獲得できたような気がします。

 

この心理士さんとの出会いで、人と出会う喜びと安心。自分の人生と向き合う力を獲得できたような気がしました。

 

2004年 20歳。ひきこもりの居場所活動の参加と夜間高校の入学

 

 

2月の終わりごろか3月に夜間高校の試験を受けました。

最初は家から最寄りの駅に向かいそこから1時間30分ぐらい掛けて電車通学する距離だったので、これまで経験した事の無い遠い通学距離に、楽しみより大きな不安が押しかかっていた記憶があります。

 

また、試験後は合格する事ができ、嬉しさと絶望感という何とも矛盾した感情を抱えながら、入学式までの日を過ごした思い出があります。

正直、その頃の気持ちとしては「時間は進まないでくれ!」と思っていた程、押しつぶされるぐらいのストレスが私に日々降り注いでいたような気がします。

 

また、2月か3月ぐらいの時期、2003年の数カ月間お世話になった心理士さんからお手紙を貰いました。

その内容は、「今度福岡の児童相談所で不登校やひきこもりの居場所活動がスタートするから一度見学に来てみてはどうか?」という内容でした。

 

私はその手紙を見て、信頼している心理士さんだったから行ってみようかなという気持ちになり一度居場所活動へ見学に行く事となりました。

でも、もし信頼してない人からの誘いだったら絶対に行っていない事を考えると、やっぱり信頼している人の動かす力は偉大だなと、今この記事を書きながら私自身感じる事ができました。

 

そうして、3月ぐらいのプレオープンの時に信頼する心理士さんと一緒に居場所活動を見学しました。

多分、時間にして1分もないぐらいの見学だったと思います。

その時の感想は「ここ無いな」というぐらいでした。

なので、次はもう無い。ここには2度と来ないと思っていました。

理由はありそうでないですが、感覚としてこのメンバーとこの雰囲気は無いなと勝手に直感で感じたぐらいです。

 

でも、今となって考えてみると、多分、当時の私には大きなプライドがあり、そのプライドを守るために何故か勝手に強がったり人を選んでいたように感じます。

 

そして夜間高校に入学すると、1学年1クラスで40人はオーバーするぐらい多い生徒数でスタートしましたが、当初入学前に母ちゃんが言っていた「夜間高校は色んな世代が居るから吉郎も同年代とか気にし過ぎる必要もないんじゃない」という楽観論でしたが、いざ入ると、同学年の半分以上が10代後半で私より年下ばかりのクラスメイトでした。

 

また、追い打ちを掛けるように一定数のヤンチャな男女がいたので、陰キャの私は毎日ビビりながら学校へ登校した思い出があります。

 

そこで私が思った事は「全然母ちゃんの話を違うやん!」でした(笑)

しかし、それは私が母ちゃんの話を疑わず調べずに鵜呑みにしたせいでもあるので、どう考えても母ちゃんに非がある話ではありません。

 

ただ、ストレス耐性が弱くプライドだけは一丁前に高かった私は、最初の数カ月間、学校では大人しく内心ビクビクしながら登校し、家に帰ってはチューハイ系のお酒を2.3本毎日飲んで荒れる日々を送っていました。

 

本当に過去に大検の予備校に通った時に比べ、比にならないぐらいのストレスを夜間高校で味わいましたが、何故か辞めずに通い続けました。

その理由は意外なんですが、私の頭の中で「もうこの高校を辞めたらもう勉強できる学校が無くなる。」という、追い込まれた逃げられないという心理状況がどんなにきつい環境でも辞めないモチベーションを生んでいました。

 

そういったストレスフルな高校生活を送る上でとても重宝したのが、児童相談所の不登校・ひきこもり支援の居場所活動です。

見学時は「行かない」と決めた場所でしたが、実際に4月から利用するようになり、週に3日開催されているので、全部行ったり、週2で行ったり、自分の気分と体調次第で好きな時に利用させてもらいました。

 

ちなみにその頃の私の学校ルーティーンは、居場所が無い時は16時40分ぐらいに家を出て電車に乗り学校。確か17時45分ぐらいからスタートし1時間目が終わると18時30分ぐらいから食堂で夕食。その後4時間目まで勉強があり、21時30分ぐらいに終了。それから電車で家に帰り22時30分ぐらいに家に着く。といった感じ。

 

居場所がある時は、11時45分ぐらいに家を出て13時に居場所活動へ参加し、職員との日常会話やカードゲーム。別室のプレイルームにて卓球やビリヤードを同じ参加者や職員と一緒に楽しむ。

夕方から学校と変わらない体育館に移動しバトミントン。バスケット。サッカーを楽しむ。

16時45分に居場所を出て夜間学校に向かう。

 

という2パターンの生活を送り、学校は勉強とストレスを溜め、居場所でストレスを発散する日々を送りました。

 

しかし、家を日常的に出るようになり始めた時期なので、土日の週末は基本的に家に篭もり心と体を休める時間にしていました。

そうしないと私がこの生活を送れなくなってしまうのが理由です。

 

こうして居場所活動や夜間高校に何とか通い続けるようになれたので、ここから本格的にひきこもり改善へ大きくシフトする転機になったと思います。

 

ちなみに、高校入学時勉強はほぼ分からない状態でしたが、夜間高校で学習する勉強で何とか知識を付ける事ができ、学校以外で勉強する事なく無事高校を卒業する事ができています。

ここで体験し学んだ事は、不登校やひきこもりだからストレス耐性やプレッシャに負けるというのは早い話であり、本人が経験した事が積み重なり色んな思いや感情が作られていく過程で、タイミングによってはどんなに辛い体験でも我慢して続ける力があるという事です。

私の場合は、大検の予備校を辞めてもう夜間高校以外学べる道はないと思い込んでいた事です。

これはある意味、当時の高校を取り巻く状況を考えたらタイミングが良かったのかもしれません。もし今の福岡市のように沢山の通信高校が存在していたら、当時の私は夜間高校を辞め別の通信高校へ行く事があったかもしれません。

また、その通信高校で続かなかったらと考えると、いつになったら高校を卒業できるのだろうと考えたりもします。

 

確かに通信高校が充実してない世界よりも充実した世界の方が、選択肢や自分へ合った高校選びができるので、一見いいように思えますが、逆に充実しているが為に、「まぁここが嫌になっても他の高校があるからいいや」と、ちょっとした事で気持ちが無くなってしまう事も考えられます。

 

進んでしたい事ではありませんが、こうした絶望的な経験も今を生きていく上で強いストレス耐性を獲得できたような気がして、若い時の苦労は買ってでもせよという言葉が身に沁みました。

 

7年間の動きを振り返って

 

 

ここまで7年間を振り返って書いていきましたが、実際はこの文字でも伝えきれないぐらいの思いや葛藤が沢山ありました。

 

それでも、こうした日々を過ごしていきながら、少しずつ前に行ったりしては戻ったり、そして再び前に進んだりというのらりくらりを繰り返しながら歩み続けています。

 

こうした日々や出来事の積み重ねが、今の私に繋がっており、その全てが今振り返ると意味のあるものだと感じたりもします。

しかし、当時は日々「こんな意味のない事ばっかりしたって何もならん!」って思っていました。

 

多分、今不登校やひきこもりをしている当事者の方。その子どもの面倒を見て悩まれている親の方。それぞれ「毎日意味のない時間を過ごしているんじゃないか」と日々感じておられると想像します。

 

しかし、その葛藤をする日々が感情を生み。動機を生み。行動へ繋がっていきます。

 

だから、みなさんに伝えたい事は、「どんなに落ち込んだり悲観してもあきらめる事はしないで」と伝えたいです。

 

当時の私も同じように毎日落ち込んだり悲観していました。

そんな私が唯一持っていた気持ちがあきらめない心でした。

このあきらめない心が無くなっていなかったから、これまでの7年間があり、今の私が存在しています。

 

みなさんもこの心を持ち続けられていると、今の状況が変化するチャンスがいつでもやってくると思いますし、私の経験から強く信じられる事だと思っています。

 

なので、みなさん心に「あきらめない」という気持ちを、楽しい時、悲しい時、怒っている時、笑っている時、涙を流している時、寂しい時、どんな感情の時も思い出したり忘れないでいて下さいね。

 

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